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最高裁判所大法廷 昭和47年(あ)1896号 判決 1974年5月29日

主文

本件上告を棄却する。

理由

弁護人山本雅彦の上告趣意第一点について。

所論のうち、判例違反をいう点は、所論引用の判例はいずれも事案を異にし本件に適切ではなく、その余は、憲法違反(一三条、一八条、三一条、三六条違反)をいう点もあるが、その実質はすべて単なる法令違反、事実誤認、量刑不当の主張であって、いずれも適法な上告理由とならない。

同第二点について。

所論は、原判決は、酒に酔い正常な運転ができないおそれのある状態で普通乗用自動車を運転した罪と酒酔いのため前方注視が困難な状態に陥り直ちに運転を中止し事故の発生を未然に防止しなければならない業務上の注意義務があるのに、これを怠って運転を継続した過失による業務上過失致死罪とが同一の機会に発生した事案につき、右両罪は併合罪の関係にあると判示しているが、この判断は所論引用の各判例に違反するというのである。

所論引用の判例のうち、当審判例(昭和三二年(あ)第二三七七号同三三年四月一〇日第一小法廷決定・刑集一二巻五号八七七頁)は、極度の疲労と睡気を覚え、ために前方を十分注視することも、ハンドル、ブレーキ等の確実な操作もできない状態にあって正常な運転をすることができないおそれがあったので、運転を中止して事故の発生を未然に防止すべき業務上の注意義務があるのに、これを怠って仮睡状態のまま自動車の運転を継続した過失により前方を同方向に進行中の二台の自転車に相次いで衝突し、一名に傷害を負わせ、一名を死に至らしめたという事案につき、無謀運転と業務上過失傷害、無謀運転と業務上過失致死の間にはそれぞれ観念的競合の関係があり結局一罪として処断すべきであるとの原判断は正当であると判示したものであるが、これを本件事案と対比すると、いずれも、正常な運転ができないおそれがある状態での道路交通法規に違反した運転の継続中に運転中止義務違反の過失による業務上過失致死傷が行なわれたことは共通であり、ただ正常な運転ができないおそれがある状態が一方は過労と睡気のためであるのに対し、他方はアルコールの影響によるものであるという点を異にするにすぎないものであるから、両者は同種の事案というほかはない。したがって、所論のとおり原判決は右判例と相反する判断のもとになされたものといわなければならない。所論のうち、福岡高等裁判所の判例に違反するという点は、最高裁判所の判例がある場合であるから、刑訴法四〇五条の上告理由にあたらない。

しかしながら、刑法五四条一項前段の規定は、一個の行為が同時に数個の犯罪構成要件に該当して数個の犯罪が競合する場合において、これを処断上の一罪として刑を科する趣旨のものであるところ、右規定にいう一個の行為とは、法的評価をはなれ構成要件的観点を捨象した自然的観察のもとで、行為者の動態が社会的見解上一個のものと評価をうける場合をいうと解すべきである。

ところで、本件の事例のような、酒に酔った状態で自動車を運転中に過って人身事故を発生させた場合についてみるに、もともと自動車を運転する行為は、その形態が、通常、時間的継続と場所的移動とを伴うものであるのに対し、その過程において人身事故を発生させる行為は、運転継続中における一時点一場所における事象であって、前記の自然的観察からするならば、両者は、酒に酔った状態で運転したことが事故を惹起した過失の内容をなすものかどうかにかかわりなく、社会的見解上別個のものと評価すべきであって、これを一個のものとみることはできない。

したがって、本件における酒酔い運転の罪とその運転中に行なわれた業務上過失致死の罪とは併合罪の関係にあるものと解するのが相当であり、原判決のこの点に関する結論は正当というべきである。以上の理由により、当裁判所は、所論引用の最高裁判所の判例を変更して、原判決の判断を維持するのを相当と認めるので、結局、最高裁判所の判例違反をいう論旨は原判決破棄の理由とはなりえないものである。

同第三点について。

所論は、量刑不当の主張であって、適法な上告理由とならない。

よって、刑訴法四一〇条二項、四一四条、三九六条により、主文のとおり判決する。

この判決は、上告趣意第二点について、裁判官岸盛一、同天野武一、同江里口清雄の各補足意見、裁判官岡原昌男の反対意見があるほか、裁判官全員一致の意見によるものである。

裁判官岸盛一の上告趣意第二点についての補足意見は、次のとおりである。

私は、多数意見を補足し、かつ、反対意見に対する疑問を指摘しておきたい。もっとも、反対意見は多岐にわたっているが、多数意見と反対意見との分岐点となる根本的な問題点、すなわち、反対意見は多数意見とひとしく自然的観察態度をとるというもののその思考内容は全く異質のものであること、および酒酔い運転と業務上過失致死傷とが観念的競合となるか併合罪となるかは酒酔いが過失の内容となっているか否かによって区別すべきであるという見解について賛成しかねることを中心にして論述することとする。

(一)  多数意見は、刑法五四条一項前段にいう「一個の行為」の判定基準については、わが国において古く大審院時代からとられてきた自然的観察の立場をとることを明らかにしたものであって、反対意見が論難するような、「行為の一個性を抽象的に割り切って一義的な定義を示した」ものではない。大審院時代からの多数の判例の軌跡をたどってみるに、構成要件的重なり合いがあるとみてよいか、ないとみるべきか判断に迷う事例、その重なり合いが極めて微少であると思われる事例、さらには、その重なり合いが全く存しないことが明白な事例についてすら、行為の一個性を肯定しているものが存するのである。従来の判例は、判文上、明白には自然的観察という文言こそ用いておらないが(但し、昭和三三年五月六日第三小法廷判決・刑集一二巻七号一二九七頁参照)、その立場にたつものであることは明らかであり、また、問題意識が浮き彫りにされている今日からみれば、再検討を必要とする若干のものがあるとはいえ、その大多数のものはいまなお相当して維持すべきであって、当裁判所もその伝統的解釈の基本的態度をうけついで現在に至っているのである。従来の判例は、反対意見のいう「複雑な犯罪形態」、すなわち、外観上は数個の意思表動としての数個の行為が存するとみられる場合であっても、それら行為の相互間に極めて密接した統一的関連性が認められ、具体的状況に照らして社会的見解上行為者の全動態を一個の事象として評価するのを相当とするならば、構成要件的連繋の有無を問題とすることなく、行為の一個性を認めているのであって(戸別訪問罪と供与罪につき昭和七年四月一四日大審院判決・刑集一一巻四四六頁、戸別訪問罪と法定外文書頒布罪につき昭和四三年一二月二四日第三小法廷判決・刑集二二巻一三号一五六七頁、騒擾罪と邸宅侵入罪につき大正一一年一二月一一日大審院判決・刑集一巻七四一頁)、この立場は、罪数論でいわれている、いわゆる意思説・行為説・結果説のいずれか一つだけに固着するものではないのである。このようなわが国の判例の態度は、基準の不明確を免れないながらも、決して裁判官の場当り的な判断を許すものではなく、日常の社会生活上の経験に基づく、具体的事実に即した、実践的な価値判断を要求するものであることが看取されるのである。したがって、その判断は、あくまで社会観念と国民一般の法感情からかけはなれたものであってはならないのであって、前述のように、従来の判例の大部分のものが今日なお維持されて然るべきものであることは、わが国の裁判実務における判断が、肆意的に流れるものでないことを示しているということができよう。もっとも、従来の判例のうちには、極く少数ながら、構成要件的合致ということに論及しているものもみうけられるのであるが、それは一つの判断資料としてなのであって、これを必要条件とする趣旨ではないのである(昭和一三年一〇月二七日大審院判決・刑集一七巻七六六頁、昭和三三年五月六日第三小法廷判決・刑集一二巻七号一二九七頁)。ところで、反対意見によれば、多数意見は、「素朴的な犯罪形態」の場合にはあてはまるが、「やや複雑な犯罪形態」の場合には適応せず、その場合には、「ある行為をまとめて一個と見ることができるかどうかの観点から結論を下すべきである」といい、さらに、転じて「行為の重なり合いがだんだん少なくなった場合、ことに二つの犯罪の構成要件の内容をなす行為が、ある一点だけで交差重複してそこだけが一個の行為となるが如き観を呈する場合」は、「自然的社会的観察をする」にあたり、「それらの犯罪構成要件について、その行為の重なり合いが、それぞれの犯罪の重要な部分について重複しているか」によって判断すべきで、結局は「構成要件的な法的評価を加味する」必要があることになる、という。そこで、問題点の紛淆を避けるために、まず、構成要件的な重なり合いということの意味を明らかにしておく必要がある。私は、それには二様の意味があると思う。第一は、構成要件的行為の重畳帯の長さを測定するための尺度としての形式的な意味のものであり、第二は、構成要件的行為の内容的合致をいう実質的なものとしてのそれである。通常わが国で説かれているところのものは、前者の意味であると思われるが、ドイツでは後述するように後者の意味に使われているのである。反対意見がいうところの複雑な犯罪形態の場合には、複雑さの程度に応じて両者を使いわけするというのであれば、判定基準としてはなはだ明確性を欠くものといわなければならない。いま、具体的な事例をとって考えてみるに、不法に所持する刀剣を用いて殺人や強盗をした場合、兇器を準備して集合しその継続中に暴力行為に及んだ場合、反対意見からすれば、重要部分についての構成要件的行為の内容的合致があるものとして観念的競合を肯定することになろう。しかし、従来からの判例はこれを否定する(昭和二六年二月二七日第三小法廷判決・刑集五巻三号四六六頁、昭和二四年一二月八日第一小法廷判決、刑集三巻一二号一九一五頁、昭和二五年五月二日第三小法廷判決・刑集四巻五号七二五頁、昭和四八年二月八日第一小法廷決定・刑集二七巻一号一頁)。さらにまた、反対意見は、終始、基本的立場として自然的観察を主張するけれども、この立場とそのいうところの構成要件的評価とは、どう結びつくのであろうか、構成要件的評価の必要性をいう以上、もはや、それは、自然的観察ではないはずである。

そこで、反対意見のいうような、構成要件の内容的合致の有無、すなわち、これを本件についていえば、酒酔い運転行為が業務上過失致死傷の過失行為の内容となっているか否かにより観念的競合と併合罪とを区別する思考方法は、古くからのドイツの判例学説に通じるものがあると思われるので、以下ドイツの判例学説と対比しつつ少しく検討を進めることとしたい。

周知のように、ドイツ刑法七三条は、わが刑法五四条一項前段の規定とほぼ同一の立言を用いているが、ドイツの刑法典には、わが刑法の牽連犯や、戦後廃止された連続犯に関する規定は存しない。それにもかかわらず、ドイツの裁判実務は、古くライヒスゲリヒト時代から、わが刑法の牽連犯、連続犯的なもの(むしろ、がわ国の学説でいう接続犯というのが正確であろうか。)をも七三条の観念的競合の範疇にいれて、行為の一個性の判定基準を論じ、その思考方法は今日のブンデスゲリヒツホーフにうけつがれており、したがって、ドイツでいう観念的競合とわが国でいうそれとでは、その法的意味内容は必ずしも同一ではないのである。そのことは、わが刑法の牽連犯は、罪と罪との関係が通常手段結果の関係にあるかを論ずるものであって、観念的競合におけるような行為者の具体的行為の一個性を問題とするものではないことからしても理解することができるであろう。ところで、ライヒスゲリヒトの判例は、当初は、七三条にいう行為の一個性の判定基準は、自然的観察態度によるべきであるとし、その基準により行為の一個性を肯定する場合に、自然的行為単一性という表現を用いていたところ、一九世紀後半頃からは、自然的観察、自然的行為単一性という旧来の表現を用いながら、当該行為の客観的部分が少くとも部分的に(重要部分ということはいわない。)数個の構成要件の実現に協働的に作用する関係の存することが必要であるとするようになり、今日のブンデスゲリヒツホーフの判例もこの見解を維持する旨言明しているのである。この協働作用の関係を表現する用語として、ドイツの判例学説では、重なり合い(デツケン)、寄与(バイトラーゲン)、協働(ミツトウイルケン)という表現が使われているが、判例は、協働という用語を用いるものが多いようである。ドイツにおけるこのような傾向は、牽連犯や連続犯的なものをも含めて、行為の一個性につき統一的な判定基準を求めようとするからであると考えられる(もっとも、連続犯的なものについては、必ずしも協働作用の関係を問題とせず、自然的観察により、これを一個の現象とすることは、社会生活上承認されるものであるとしている。)。そのことは、わが国でならば異論なく牽連犯とされている事例について、協働作用関係が認められないとして、併合罪とされた判例の存することからも看取されるのである。このような、ドイツの裁判実務の傾向に対して、ドイツの学界は、飲酒の影響が過失の内容をなしているか否かによって観念的競合と併合罪との区別を説くことについて、疑問を留保するむきもあるが、大勢は右の協働作用関係の思考方法に対し異論を唱えてはいない。学説の傾向を極めて概括的にいうならば、判例に対する批判として、行為の一個性の判定基準としての自然的観察と自然的行為単一性とを混同するものであるとか、判例が構成要件的連繋によって行為の一個性を認めている場合をも自然的行為単一性というのは誤りで、それは技術的な法律的行為単一性にほかならないとか、判例は、法文の文理に反する解釈をとっているが、それが機縁となって自然的行為単一性という概念が無用のものとして将来抹殺されることになれば、それでもよいとか、という趣旨のことがいわれている。そして、自然的意味においての自然的行為単一性と法技術的な法律的行為単一性との二元的立場から行為の一個性を論じ、前者を一個の意思表動としての一個の行為の場合に局限し、法律的行為単一性が論議の中心課題とされているように思われるのである。さらに、学界は、判例が自然的行為単一の概念を不当に拡大する原因はドイツ刑法七四条の併合罪の刑の加重についての手続の煩わしさを回避するためであると批判している。しかし、そのような回避現象は,、わが国では全く見られないし、また、特段の事情のない限り、酒酔い運転と過失致死傷を観念的競合とするか併合罪とするかによって、量刑上ほとんど差異の認められないことは、日常の裁判実務の示すとおりである。およそ、観念的競合は、その行為の一個性にかんがみて加重主義をとらないと考えることもできるし、逆に、一個の行為で数罪を犯すことは、むしろ責任が重いという考え方も可能である。しかし、西洋の刑法が「犯罪の数だけの刑罰」を根本思想として併科主義を本来的なものとするのに対し、東洋の刑罰思想は、伝統的に吸収主義、統一刑主義を根本としてきたものであることは、つとにわが学界の有力な学説によって明らかにされているとおりであり、また、わが国の裁判実務では具体的な事案に即して相当とする刑が量定されているのであって、併合罪とされる場合必ずしも常に観念的競合とされる場合よりも重く、観念的競合とされる場合必ずしも常に併合罪とされる場合よりも軽く処罰されるとはいえないのである。いうまでもなく、多数意見は交通事犯に対し厳罰主義をとろうとする政策的な考慮からでたものでないのである。むしろ、重要なことは、ドイツの判例学説は、前述のような基盤と背景のもとで独自に発展した理論であり、これに通じる反対意見の思考方法は、ドイツ的な思考方法を移植することなく、長年にわたる判例の集積によって、それとは別個の発展をとげてきた現行法のもとでのわが国の裁判実務における伝統的解釈を、大きく転回させることにもなるということである。

つぎに、反対意見は、多数意見の判文の表現は、知らず識らずのうちに構成要件的評価を思考過程に導入したものであるという。しかし、多数意見は、本件の事実関係を、社会的事実としての自然な姿において観察したところを記述しただけのことなのである。継続犯と即成犯との区別は、構成要件上行為が一定の時間的継続性を必要とするか否かによるものであるが、これらの概念は、結合犯・集合犯(営業犯、職業犯、慣行犯等)と同様に、法が規定する構成要件に由来する犯罪分類上の法的概念であり、裁判所の判断による法的評価以前のものであるところ、観念的競合の判定基準として論じられる構成要件的評価は、これとは全く異なる構成要件的連繋の問題なのである。反対意見は、多数意見が、継続犯・即成犯の法的概念を無意識の裡に念頭においていると論難するのであろうが、そのことは、構成要件的評価を捨象する自然的観察の態度となんら矛盾するものではなく、継続犯と即成犯との関係が、一義的に行為の一個性の有無を決定するものでないことは、反対意見の見解じたいからも明白であったはずである。

(二)  つぎに、反対意見は、本件のように酒酔いの影響のため運転中の突発事態に対処しうる注意義務を期待することができず、事故直前には別個の過失を認めることができない場合には、事故惹起以前の運転避止ないし中止義務違反を過失としてとらえるべきであるという。過失犯の構造の問題は別論として、反対意見がいう酒酔いのために突発事態に対処しうる注意義務を期待することができない状態とは、精神上のいかなる程度の障害をいうのであろうか。おそらく、刑法上の心神耗弱の程度にまで達していない状態で、突発の危険を認識することができないとか、その認識はできても、操縦上の行動能力を欠く場合のあることを指していると解せられるのであるが、しかし、いかなる犯罪についても、刑法上の顧慮に値する精神障害は、刑法三九条に定める心身喪失と心神耗弱とをおいては他にないのである。

およそ、酒酔い運転中に過失致死傷の事故をおこす通常の事例は、後刻自動車を運転することが予定されているか、または、その予測が可能な状態のもとで運転者が飲酒した場合である。飲酒の影響が、刑法上の心神喪失または耗弱の程度に達していなければ、完全な責任能力者としての運転者の過失責任を問うべきであることはいうまでもない。もし、その時点における運転者が心神喪失または耗弱の状態であったとすれば、いわゆる「原因において自由な行為」の理論によって、右と同一の結論となるのである。そこで、前者の場合と「原因において自由な行為」としての過失犯の場合とを対比して、過失のとらえかたについて両者の間に区別を認めるべきかどうかを、次に考えることとする。まず、「原因において自由な行為」としての故意犯の場合には、行為者が、責任能力ある状態のもとで自ら招いた心神喪失または耗弱の状態を、犯罪の実行に利用しようという積極的な意思があるのであるから、その意思は、犯罪の実行行為の時点にも作用しているとみることができ、したがって、犯罪実行の時点における行為者は、単なる責任無能力者としての道具または限定責任能力者であるばかりでなく、同時に、責任能力ある間接正犯者なのである。ところが、過失犯の場合には、右のような積極的な意思は存しない。しかし、原因設定行為の時点における責任能力ある状態のもとでの注意の欠如という消極的な心理状態は、結果惹起の時点にも作用しているとみることができるのであるから、過失犯の場合もまた、結果惹起の時点における行為者は、単なる責任無能力者としての道具または限定責任能力者であるばかりでなく、同時に、責任能力ある不注意な行動者なのであるとみなければならない。したがって、故意犯についてはその実行行為、過失犯については事故惹起の時点をとらえて、構成要件の定型性の具備、責任と行為との同時存在を認めることができるのであり、「原因において自由な行為」の理論の本来的な意義は、まさにこの点にこそあると考えられるのである(この理論が心神耗弱の場合にも適用されるかについては、わが国では積極消極の両説が対立しているが、心神喪失の場合にすら完全な責任能力者としての責任を問いうることとの均衡もさることながら、この理論の適用としては、両者に差別を認める必要はないと考える。なお、改正刑法草案一七条参照)。そうだとすれば、犯罪形態は全く同一でありながら、飲酒の影響が、心神喪失または耗弱の状態を招いた場合と、刑法上の顧慮に値しない程度の酩酊状態を招いた場合とを区別して、後者の場合について意識の減退・喪失のため自動車操縦についての行動能力を欠いたかどうかにより、具体的な注意義務を期待することができたか否かを問題とする必要が果してあるだろうか。もともと、酒酔い運転を処罰する道路交通法一一七条の二の一号の規定は、酒酔い運転が事故の惹起につながる危険の少なくないことを考慮したものであり、その法意に照らすときは、前述の「原因において自由な行為」の理論が適用される場合を別にしても、右法条については、刑法三九条の適用の余地はなく(但し、心神耗弱の場合に関する昭和四三年二月二七日第三小法廷決定・刑集二二巻二号六七頁参照)、また、運転者が飲酒の影響のため正常な運転ができないおそれがある状態にあることを自ら認識していることすら必要とするものではないのである(昭和四六年一二月二三日第一小法廷判決・刑集二五巻九号一一〇〇頁)。このような、酒酔い運転行為と事故惹起との関係は、平素自己の酒癖の悪いことを自覚している者が、自制することなく飲酒したために、過失傷害・致死その他の過失犯を犯す場合とひとしく、否むしろより以上に、事故惹起の時点における結果発生の過失は、運転開始前の不注意による飲酒と結びついているものというべきである。

したがって、事故惹起の時点において、運転者が心神喪失・心神耗弱、またはその程度に至らない酩酊状態のため行動能力を欠くいずれの場合であっても、反対意見がいうような、事故惹起時点よりもさかのぼって、運転避止ないし中止義務違反や酒酔い運転行為じたいを過失としてとらえるというような論法を用いる必要はないし、また、酒酔い運転行為が過失の内容をなすかどうかによって、観念的競合と併合罪とを区別しようとする、前記(一)で述べたドイツの固有の基盤のうえで発展した思考方法をとる必要もないと考えるものである。

(三)  なお、裁判官江里口清雄の補足意見に同調する。

裁判官天野武一の上告趣意第二点についての補足意見は、次のとおりである。

私は、裁判官岸盛一、同江里口清雄の各補足意見に同調する。

裁判官江里口清雄の上告趣意第二点についての補足意見は、次のとおりである。

私は、裁判官岸盛一の補足意見に同調し、反対意見のいう酒酔いの影響により運転中突発の事態に対処し得るような具体的注意義務を期待することができない程度に酔った状態、すなわち運転中止ないし避止義務違反が過失の内容とされる程度の酒酔い状態(ここでは単に泥酔状態という)と、その程度に至らない酒酔い状態との限界がいかにあいまいであるかについて付言しておきたい。

酒量や酩酊度には著しい個人差があり、また同一人であっても飲酒時及びその後の状況により差異のあるものであることは周知のとおりであるが、裁判上の事例では、呼気一リットルにつき一・五〇ミリグラム以上(二・〇〇ミリグラム未満)のアルコールを保有する場合でも、事故時における具体的過失が認定されて、酒酔い運転と業務上過失致死傷の両罪を併合罪として処断される場合があり、他方呼気一リットルにつき〇・五〇ミリグラム以上(一・〇〇ミリグラム未満)に過ぎないのに泥酔運転として右の両罪を観念的競合として処断される場合もさほど稀ではなく、従来の裁判例の上では、アルコールの身体保有量が泥酔状態を判定する的確な基準となっていない。このように、車両の運転者が泥酔状態にあるか否かは、その限界があまりにもあいまいかつ流動的で、区別すること自体が無理であるばかりでなく、泥酔状態を認定する証拠としては、身体中のアルコール保有量及びその際の簡単な問答や検分を記載した鑑識カード、並びに、「酔いがまわって目がかすんできた」「目がしょぼしょぼしてきた」「もうろうとなって前を見るにも大変になった」等のきわめて簡単で定型的な記載のある当該被告人の供述調書以外には、他の資料がほとんどないのが実務の通例であって、結局は、このような必ずしも十分とはいえない資料によって観念的競合と併合罪とを区別せざるをえない場合もあることとなるのである。そのことは、事実の確定について正確を期するうえからもいささか疑問の感を禁じえないものがある。

裁判官岡原昌男の上告趣意第二点についての反対意見は、次のとおりである。

一、刑法五四条一項前段の観念的競合は、ある一個の行為が同時に数個の犯罪構成要件にあたり、数個の犯罪が成立する場合において、それらをそれぞれ別個に処罰することなしに最も重い犯罪の刑だけで処断するという趣旨で設けられたものである。これをわが国旧刑法以来改正刑法草案に至るまでの沿革に徴するに、数個の犯罪を同時に処罰する場合に、現行法の如くこれを併合罪と観念的競合、牽連犯との二様の形をとるか、旧刑法の数罪倶発、改正刑法草案の競合犯の如く原則として一本にまとめるか、またそれらの犯罪に如何なる刑を科するかについては、専ら立法政策的観点から論ぜられ、それぞれ場合によって、吸収、併合加重、併科など種々の立場がとられているのである。観念的競合の問題は、本来犯罪の個数の問題であると同時に、むしろ科刑の問題なのである。逆に言えば現行法下においては、数個の犯罪構成要件に該当する行為に対し、それらをまとめて一個の行為であるとみることができ、同時にそれを最も重い犯罪の刑一個だけで科刑するのを適当であるとする場合に、初めて観念的競合罪が認められて然るべきであって、一個の行為ということを抽象的観念的に定義してそれをあらゆる犯罪現象の上にあてはめようとすれば、かなり無理な結論あるいは論理的撞着に陥ることもあり得ることとなるであろう。大審院以来観念的競合と併合罪の区別について数多くの判例が出ているが、それぞれ事案に応じて具体的に妥当な線を追求したもののように見え、これを理論的に割り切って明確にし、総ての場合にあてはまるような原則的定義を掲げたものが殆んど見当らないことからも、この問題の複雑さを汲みとることができる。

二、ところで多数意見は、観念的競合の「一個の行為とは、法的評価をはなれ構成要件的観点を捨象した自然的観察のもとで、行為者の動態が社会的見解上一個のものとの評価をうける場合をいう」と定義している。そして、それは犯罪構成要件の面からする法的評価を加えずに、行為者の客観的動態を見て行為の個数を判断すべしとする立場から出発しているもののようである。然し、人間の犯罪行為を論ずるにあたり純客観的な判断が可能なりや、また妥当なりやに先づ大きな疑問を抱かざるを得ない。ともあれ、この多数意見の定義は、当初観念的競合の考えられた素朴的な犯罪形態-一個の投石で傷害と器物損壊の結果を生じたといったようなものには、そのままあてはまるけれども、やや複雑な犯罪形態において行為の競合重複した場合の観念的競合の成否の判断基準としては適応しない。以下詳説しよう。

三、私は刑法五四条一項前段の「一個の行為」が、第一次的には自然的観察において社会的に単一の行為を意味するものと考えるが、それは行為者の主観的事情、意図目的、保護法益、行為の結果など総ての事実を社会的現象として総合判断し、無理なくありのままに観察し、ある行為をまとめて一個と見ることができるかどうか、一個と見て最も重い犯罪の刑だけで処断することが相当であるかどうかの観点から結論を下すべきであると考える。従ってその判断は総合的価値論的であるが、時に直截的でないとの批判を受けるかも知れないけれども、最も常識的な具体的に妥当な結論をもたらし得るものであると思う。純客観的現象としての行為の外形的動態のみを基準とするのは正しくないものと考える。

そもそも一個の行為にして数個の罪名に触れるといううちには、行為が単一であっても、それに内在する意思から見て、或いはその結果から考えて同時に数個の犯罪構成要件を充たす場合もあろうし(そのうちのあるものは法条競合で処理される)、その共通の一行為だけでは単一の犯罪が成立するに過ぎないが、これに他の要素が加わって同時に他の犯罪が成立し、又はその共通の一行為だけでは全然犯罪にならないが他の要素が加わって数個の犯罪が成立する場合もあろう。この最後の場合は例えば贈与を受ける行為を共通にする収賄と賍物収受、自動車運転行為を共通にする無免許運転と酒酔運転などがその典型的なものであろう。

これを犯罪構成要件の内容をなす行為という面から考えて見ると、ある犯罪の構成要件の内容をなす行為と他の犯罪の構成要件の内容をなす行為とが、具体的事案において完全に一致する場合は多数意見の純客観的観察においても行為は単一であって、結論は同じことになるのであるが、二つの犯罪の構成要件の内容をなす行為の重なり合いがだんだん少なくなった場合、殊に二つの犯罪の構成要件の内容をなす行為が、ある一点だけで交差重複してそこだけが一個の行為となるが如き観を呈する場合においては、その行為の自然的社会的観察をするにあたり、それらの犯罪構成要件について、その行為の重なり合いが、それぞれの犯罪の重要部分について存するか否かを検討し、重要部分が重複しておれば行為が一個と見て観念的競合とし、然らざる場合は併合罪と判断するのが相当であると考える。

多数意見の如く純客観的行為の動態だけに行為の単複を区別する基準を設けるとすれば、両罪に共通する行為が完全に一致する場合は説明できても、両罪の行為の重複がその一部に過ぎないとき、殊に犯罪の予備行為が同時に他の犯罪を構成するときなどいわゆる一部交差の場合や、両罪の一方又は双方が結合犯、継続犯、営業犯であるときについては説明のつき兼ねる場合が生ずるであろう。両罪の総ての行為が全部重なり合わなければ観念的競合にならないとするのも一つの考え方であるが、それでは「一個の行為」ということと矛盾するし、反対に一部でも重複すれば総て観念的競合とするのも一つの理論であろうが、そうすると例えば道交法上自動車運転に伴って成立する犯罪は、法的評価を受けない運転行為で連結されて総て観念的競合になってしまうおそれがある。結局前述の如く構成要件的な面からする法的評価を加味することによって調節し、合理的な結論を求める方が妥当であると思われる。

四、これを本件のような道交法違反の酒酔運転と業務上過失致死傷(以下時に業過と略称する。)事件について見るに、アルコールの影響により運転中突発の事態に対処し得るような具体的注意義務を期待することができない程度に酔った状態で自動車を運転(以下この状態での運転を前記の如き酒酔運転又は単に泥酔運転と略称することがある。)することは道交法一一七条の二に違反すると同時に、このような状態での運転は一般に事故に直結する可能性が極めて高いので、運転者としては運転避止ないし中止の義務があることは当然である。その運転中幸い事故が起らなければ一個の継続した酒酔運転の罪が成立するに過ぎない。然し人身事故が起きると、その運転避止ないし中止義務違背は、発生した結果との間に因果関係の認められる限り事故の原因とされるものであり、また叙上のような酒酔い状態では、突発事態に対処するような新たな具体的注意義務を期待することができないのであるから、責任と行為の同時存在が要請される以上、当該運転者の過失行為は、まさに運転を避止ないし中止すべきであるのにかかわらず、敢えてこれに違背して運転を継続したこと以外にはないというべきである。そうだとすれば運転中右の状態が続く限り道交法違反は継続し、かつ、業過の関係で運転中止義務に違背した過失行為は引き続いて存するのであって、その義務違背運転を原因として人身事故を起した場合には、その運転行為は観念的競合の一個の行為と見るべきものであると考える。

酒酔運転は事故を起し勝ちであるから予防的な意味で事故を起さなくとも処罰するのであるが、酒酔運転を原因として既に事故を起した場合には、それに対する業過の重い刑で処分するだけで十分だと考えることもできよう。この点については道交法上処罰されるその他の種々の注意義務違反が原因で事故を起した場合に、その違反を別個の犯罪として訴因罰条に加えないのが一般であることをこの際考え合わす必要があろう。同様の考え方で、事故の原因とならない道交法違反は業過と観念的競合にならないものとすべきであろう。

五、酒酔運転と業過との関係は、多数意見も説く如く、いねむり運転と業過との関係と問題点を共通にしている。

多数意見はこの点に関し、「もともと自動車を運転する行為は、その形態が、通常、時間的継続と場所的移動とを伴うものであるのに対し、その過程において人身事故を発生させる行為は、運転継続中における一時点一場所における事象であって」自然的観察から一個とは見られないとするが、運転は常に時間的継続と場所的移動とを伴うからこそ事故が起きるのである。多数意見は前記の如き酒酔運転開始直後に一瞬のうちに事故を発生させた場合にも観念的競合の成立を認めないのであろうか。もしそうだとするとそれは社会的見解とは到底相容れないものといわざるを得ない。或いは右のような場合に観念的競合を認めるというのであれば、そうすると一体どのくらい運転した後に事故を起したら併合罪になるのであろうか。一方事故の発生した時点での行為はあたかも一個のものであるかの如く見えるものであるということは認めているもののようでもありながら、事故を起すまでの継続した運転行為と、業務上過失致死傷につながる事故前後の何米か何十米かの運転行為とは社会的見解上形態が異質であるというのである。私には到底理解ができない。

酒酔運転の罪と業過の犯罪とが形態的に異質のものであるという立論ならば、まだ理解できないではない。即ち継続犯中にたまたま別個になされた即成犯とはそれぞれ犯罪形態を異にし観念的競合にはなり得ない場合が多いとされているが、ただそれは犯罪形態即ち構成要件的行為の形態が異種類のものであって、両者が相互にその内容となり得ないときは当然のことであって、犯罪の同時性が常に必ずしも行為の同一性と結びつくものではないという意味においても、それは正しい。

然し、今問題になっている「行為」は運転という行為だけである。多数意見が構成要件的要素を捨象して行為自体を客観的に取出して見るべきであるとしながら、酒酔運転の際の運転行為と事故発生時の運転行為(多数意見では「事故を発生させる行為」というが、それは不正確であって、過失や結果を捨象すれば「事故発生時の運転行為」ということに外ならない。)とは形態的に異質であるとするのは、おそらく前述の構成要件的要素、例えば酒酔運転中に別個に致死傷の原因となる注意義務違背の過失ある運転をしたというような要素、或いは犯罪そのものの形態が違うという要素を、知らず識らずのうちに思考過程に尊入立論したためではなかろうか。「事故を発生させる行為」という不用意な用語にその片鱗がうかがわれる。

右のように考えて来ると、両方の運転行為で違っている点は、時間と距離の長短の一点に尽きる。それは量の問題であって、もはや質の問題ではない。事故を起す運転が「運転継続中における一時点一場所における事象」であるといっても、自動車が若干の時間をかけて、いくらかの距離を移動しなければ事故は発生しないのであって、しかもその間、事故の原因である過失そのものである酒酔運転という全く同一形態の行為が続いているのである。その継続した一行為は途中で分断して考えることもできないし、それが変質する余地もない。

多数意見に従えば、ブレーキの全く作動しない車両であることを当初から知りながら当該車両を運転して他人に衝突させ人身事故を発生させた場合についても、それが発進と同時に事故が発生した場合でない限り、道交法一一九条一項五号の罪と刑法二一一条の罪とは併合罪と考えるのであろうか。もしそうだとすれば、この場合、自然的観察の上からそこにどのような数個の行為が存在するということになるのであろうか。(なお、最高裁判所においても、継続犯、営業犯と即成犯との関係にある職業安定法六四条一号の罪(三二条一項違反)又は六三条二号の罪と労働基準法一一八条の罪(六条違反)、児童福祉法六〇条一項の罪(三四条一項違反)と売春防止法一二条の罪との関係につき、いずれも観念的競合を認めている。)

六、最後に私の意見に対する反論となりうると思われる他の諸点について、一括して簡単に触れておく。

(一)  先づ、交通戦争のさ中、事故を起すような酒酔運転はできるだけ重く処罰せよという議論がある。その気持ちは分らないではない。然し、冒頭に述べた如く、観念的競合の概念の設定、刑法への導入は専ら科刑についての立法政策に出たものであって、成立する犯罪を一つ一つ処罰しなければならないとか、併合罪加重を原則とすべしとする理論的な根拠はない。また現行法下、裁判科刑の実情に照らし、裁判官は業過の法定刑の枠内で十分その目的を達し得るのであって、併合罪加重によって重刑を科するという政策的配慮をする必要を見ない。

(二)  東京から前述のような泥酔運転をし、川崎で事故を起した場合に、その間の長距離長時間の酒酔運転を不問に付するのは怪しからぬという議論を聞く。然し、観念的競合は軽い罪を全然不問に付するのではなくて、犯罪の成立を認めるのである。そしてその上でその事実は量刑の資料にすれば良いのであって何等不都合はない。それに現在の交通事情から推論すれば、東京附近の道路を十数粁に亘って無事に運転し川崎で事故を起したとすれば、それは運転中止義務違反を伴う程度の酒酔運転を原因とするものではなくて、事故直前の別個の具体的注意義務違反によるものと見るべきであって、設例が適当でない。本件で問題にしている運転避止ないし中止義務を伴うような酒酔運転では、いねむり運転同様程遠からずして事故が起きる筈である。

(三)  次に、酔いの程度の重い者が観念的競合となるに対し、その軽い者が併合罪加重となって均衡がとれないとの論は一応尤もではあるが、観念的競合を規定する以上は若干の刑の不均衡は已むを得ぬことであって、牽連犯やもとの連続犯についても似たような問題があった。のみならず、酒酔いの程度甚だしきに至れば、運転行為も業過もすべて心神喪失として無罪となる場合すらあることも考えるべきである。(但し、飲酒後自動車を運転することを予定して飲み始めた場合、「原因において自由なる行為」として処理し得るであろう。また酒酔運転については刑法三九条二項の適用がないとの判例(最高裁昭和四二年(あ)第一八一四号同四三年二月二七日第三小法廷決定・刑集二二巻二号六七頁)は、飲酒の結果心神耗弱の程度に達した場合には、道交法一一七条の二第一号はその規定の性質上刑法八条但書にいう「特別ノ規定」にあたり刑法三九条二項の適用を排除するものとした趣旨と理解すべきものと考えるのであるが、心神喪失の程度に至れば刑法の原則に戻って責任能力がないものとなさざるを得ない。)さて、本件の如き事案に即応し、実際に如何なる処断刑になるかを懲役刑だけについて検討すると、酒酔運転と業過との観念的競合ならば懲役五年以下であるのに対し、これを併合罪としても懲役七年以下(事件当時ならば懲役六年以下)ということになるに過ぎず科刑の実務上意味を有つほどの差異はない。

(四)  観念的競合を認めることによって確定判決の既判力が広く観念的競合罪の他の部分にも及び刑事政策的に不合理であるとの批判があるが、観念的競合を認めることにより道交法違反の徹底的取締ができなくなることを余り心配する必要はない。道交法違反について観念的競合の犯罪の一部が分離して処罰されるということは理論的には考え得るが、牽連犯や連続犯におけると異なり、観念的競合の一部だけが発覚するということは、自然的観察において一個の行為であるというこの犯罪形態の特殊性に鑑み、殆んど起り得ない。殊に酒酔運転はいわゆる反則金制度の下においても「反則行為」から除外され通常手続によることとされ(道交法一二五条二項三号)ているから、酒酔運転についてのみ安易に切符を発行して業過事件を見逃してしまうというが如きことは制度上起り得ない。またもし観念的競合にあたる数罪が同時に発覚しながらその一部だけが起訴された場合は、おそらくその残りは不問に付されたと見るべきであって、後日あらためてそれを問題にすることは実務上考えられない。のみならず冒頭述べた通り、それらの犯罪を一つ一つ処断しなければならないという刑事政策上の原則も存在しないのであるからこの批判は当っていないものと考える。

(五)  以上論ずるところは、何れも本件原審の是認する第一審判決の事実認定の如く、酒酔運転自体が過失であって事故直前には別個の過失を認めることができない場合を前提としていることを忘れてはならない。酒に酔っていても自動車を運転できる程度であれば前方注視義務も、事故を避けるための転把制動等の注意義務も当然事故直前に発生している筈だ、即ちそれらの義務の前提である期待可能性も認められる筈だという議論、或いは、酒に酔って翌朝総てを記憶喪失することがあっても、運転中は気は確かであって運転中止義務を安易に認めるべきでないという議論は、何れも事実認定の際心得ておかなければならない問題点として考える限りは同調し得る。また、本件は検察官所論のごとく事故直前に別個の過失を設定することができて、従って併合罪を認定すべきであったかも知れないとの疑念は残る事案であるとも言える。然しそれは法律論ではない。

(六)  いわゆる一元説をとると下級審が楽になるという考え方がある。しかしながら、事実審としては、過失をどの点に認めるべきやの事実認定についての苦労は、訴因との関係もあり、従前と全然変わらないし、業過と道交法違反とは、如何なる場合にも観念的競合になり得ないとでもいわない限り楽になるということはあり得ない。若しどこに過失を認めても結果は同じ併合罪であるとの安易な気持ちで過失を認定することがあれば大変な誤りである。

七、以上多数意見が理由として説示するところのみならず、その根拠となり得ると思われる論点をも検討したが、何れも私を納得せしめるに足りないので、敢えて反対意見を書いた次第である。

八、従って、所論引用の当審判例はこれを変更すべきものではないから、これと相反する判断をした原判決は破棄を免れない。

(裁判長裁判官 大隅健一郎 裁判官 関根小郷 裁判官 藤林益三 裁判官 岡原昌男 裁判官 小川信雄 裁判官 下田武三 裁判官 岸盛一 裁判官天野武一 裁判官 坂本吉勝 裁判官 岸上康夫 裁判官 江里口清雄 裁判官 大塚喜一郎 裁判官 高辻正己 裁判官 吉田豊)

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